昔を懐かしむ話 

                                                                                                                                    昔を懐かしむ TOPへ戻る

 

                              取っ掛かり 2015年7月吉日

                                    2016年3月吉日

 

このホームページを作ろうとした動機ときっかけ

仕事を辞めメタボ解消の為には『食事の改善』と『歩く事』が必須であると考えてい

た処、NHKの『ぶらタモリ』見ていると結構面白い。私も地域の資料など調べな

がらぶらぶら散歩したら、良い発見が出来るのでは、と考えていたところ、2015

7月4日(土)北区岩淵の荒川知水資料館を見学した時に資料館の女性に教えて

ただきました。北区の事について調べるにはまず、北とぴあ11F産業振興課で目的

を持って色々な資料を集めたり、聞いて見る事。王子中央図書館赤いレンガ造り)

『北区の部屋』があり地域資料専門員の方がいて北区について詳しい。色々なヒン

トが貰える。またここで調べられる。1日いてもあきない所と教わった。非常に参考

になった。7月7日(火)産業振興課でパンフレットを貰い調べたい事を箇条書にし

て中央図書館へ。そして『北区の部屋』の地域資料専門員Hさん

① 地元、田端新町や田端八幡神社について

② 田端駅とその周辺、田端大橋、田端操車場、尾久操車場等について

③ 田端新町付近明治通り昔中古の機械屋さんが非常に多かった事について

④ 田端の文豪たちについて

を頭に入れながら私の住んでいる地元の事にいて聞いて見ました。すると考書

籍を数冊出してくれてその中でもこの本が一番詳しいかもしれない・・『北区史 

俗編2』 編集 北区史編纂調査会 発行 東京都北区 を紹介してくれました。その後

の話として田端大橋を下りて左側の田端操車場と尾久操車場の間を道が上中里方面

向かって続いているが昔(子供の頃には)横に用水路が流れていた気がする・・・

れは下郷23ヶ村用水と即答で答え資料を出してくました。これも面白そう

帰宅後インタ-ネットでも色々と検索してみたが、まずは自分の住んでいる町の事

知ろうと借りてきた本を読み始めました。一段落した所で『下郷23ヶ村用水』

思い出し動き出す。

『下郷23ヶ村用水』が流れていた形跡を追って・・・

10月18日(日)下郷23ヶ村用水が流れていた形跡を東田端のJR東京

から王子音無川付近まで暗渠等があるかデジタルカメラ片手に徒歩で調べて見ま

した。暗渠等は見つける事は出来ませんでしたが気になるのが道路に沿ってマン

ールの蓋(模様は桜の花びらと銀杏の葉で、書いてある文字は東京・下水道・

合流・ そして記号はT-2○ ○○ ○△ ○△ ○○年である)が道路内

左側にその後は右側に沿って等間隔で続いていた事。用水路がそのまま下水道に

変わり下水が流れているのではないかと勝手に推測しました。さてこの後どう

う?取りあえず撮ってきた動画の編集をして見ました。まず動画を撮るにあたっ

てはインターネットで23ヶ村用水を検索し。現在の地図にこの用水が載った資料

があり、これを参考に東田端から王子方面を撮影しました。どうぞご覧下さい。

動画 下郷23ヶ村用水跡をたどって東田端~王子音無川へ2015年10月18日

ここで私の語った言葉に間違いが幾つかあります。ここに訂正してお詫び申し上げ                  戻る 1

ます。まずは新幹線等を映した場所の跨線橋(コセンキョウ)を(カセンキョウ)

と間違って発音しています。この跨線橋名は御坊坂跨線人道橋といいます。次に東

線が合流する京浜東北線付近では山手線は通っていません。首都高速王子南イ

ターからは東北自動車道、常磐道方面には行けません。王子北インターからは行け

ます。その他にも間違いが多々あると思いますが後になって決定的な大きな間違い

(勘違い)をしている事に気がつきました。それは後ほどに紹介します。マンホー

ルの蓋の写真も撮っています。ご覧下さい

マンホールの蓋にいて調べて見ました。その中で下水道・合流のマンホール

蓋は模様桜の花びらと銀杏の葉で東京都、書いてある文字は東京・下水道・

合流・ 記号はT-2○ ○○ ○△ ○△ ○○年である。おもしろ発見①

下水道・合流のマンホールの蓋の記号分析です。

① T-25 31黄 6E青 0H青 68黄 年

② T-20 01黄 8E青 2H青 80黄 年

① のT-25は荷重区分。通行可能車種の総重量が25トンまで可能である事を示

している。中央部の4つのくぼみの記号は 31黄 6E青 0H青 68黄 年で

もっとも右の数字68は下水道の敷設年度。1900年代なら黄、2000年代なら

青に着色。つまり右のくぼみを見れば『管路の年齢』が分かる仕組み。で残りの3つ

のくぼみはマンホールを識別するための記号や番号でもし非常事態が起きた場合、こ

れらの記号や番号も合わせて報告すれば設置場所が特定出来る。それと一番左のくぼ

が黄色ならば合流管か汚水管である。つまり①は1968年(昭和43年)に出来

②は1980年(昭和55年)に出来た事になる。

石神井川が昔から王子周辺では音無川と呼ばれていて、私もそう呼んで覚えていまし

が現在の呼び名は石神井川で統一のようです。私は今まで通り音無川と言います。 

次に実際に見ての驚き、音無川が音無橋の上流部から地下に潜り明治通り、飛鳥山、

JR王子駅、都電荒川線の下を横切って流れていた事です。その訳は おもしろ発見

 文献『北区の歴史 付録 かわら版北区史』 編集発行 財 北区文化振興財団

にこの事にいての記述が書いてありましたびっくりです。 それは以下のとおり

です。 

石神井川の水害とその対策

区内の各施設の近代化が進められ、道路の舗装が完全なものとなるにつれて、『第二

の水害』ともいえる石神井川(音無川)の水害が大きな問題になってきました。道路

の舗装率が高くなるにつれて、降雨は殆ど石神井川に流れこむようになってしまいま

した。そのため石神井川の水害が発生するようになり、特に昭和33年の22号台風

による水害は、災害救助法が発動されるほどでした。そこで音無橋の上流部から飛鳥

山と王子駅の下をくぐりぬけて当時の十条製紙社宅裏まで大きなパイプを通し洪水を

防ぐことになりました。この大工事は、昭和40年6月に着工され、和43年5月

、2本のバイパスのうち1本が完成しました。その後王子駅付近一帯は石神井川の水

害からのがれることが出来たのです。引き続き2本目も昭和58年に完成し、河川改

修事業に伴うS字カット部分は、昭和55年完成の音無さくら緑地以来昭和63年

音無かつら緑地まで7つの緑地公園として生まれ変わりました。またこの2本のバイ

パスの完成により、その下流部分を昔の音無川の雰囲気を復元した親水公園としての

活用工事が進められ昭和63年5月音無親水公園が完成したのであります。                                                                                                                           戻る 2 

私の記憶をかぶらせて見ると子供の頃(当時8歳)に1度だけ味わった記憶、田端

町付近も道路が水びたしの床下浸水で、玄関の履物が全て浮いていた。私は面白がっ

て外で遊んでいた。当時のほとんどのトイレは水洗ではない為バキュームカーが定期

的に来て長いホースの先にボールをつけて裏のトイレのある場所に行きホースで汚物

を吸い込んで行く。お金を払うのではなく、券を渡していた記憶がある。そんなわけ

で当時は汚物も浮いていたと思われる。10年後に飛鳥山の下にパイ

プを通す大工事が完成した事がこの文献で判る。するとその前は今の親水公園の所を

S字に曲がって流れていた事になる。私の頭の中で次の疑問が出てきました。下郷2

3ヶ村用水は私が動画でおそらくこの辺りからと語っているがその位置から取り入れ

たのではない(インターネット検索の地図の位置ではない)気がして来ました。

11月19日(木)中央図書館『北区の部屋』の地域資料専門員Kさんにこの疑問に

ついて質問してみました。それに答えるかのように古地図29 明治44年発行 瀧

野川村全図 『東京府北豊嶋郡瀧野川村』 古地図30 明治44年発行 王子町全

図 『東京府北豊嶋郡王子町』 それと北区立郷土資料館シリーズⅤ 『北区の橋』

の2、3頁 北区の橋の所在地(地図) にも点線で正確に23ヶ村用水が地図に載

っています。なるほど (注)2枚の古地図には隣の地区は載っていません。

ご覧下さい。

古地図を見て大きな間違い(勘違い)考え違いをしている事に気が付きました。そ

と北区立郷土資料館シリーズ17 『北区の水ものがたり』に 『下郷用水』 『上

郷用水』 『王子大堰』 『谷田川』 等について書かれた資料もありました。改め

正確な位置を古地図と現在の地図とで照らし合わせて確認しながら11月26日(

)今度は自転車で田端→上中里まで合流・下水道のマンホールの蓋を一つ一つカ

ラに収め、11月28日(土)も同様に上中里→王子までのマンホールの蓋をカメラ

に収めながら進んだ。ここで尾久駅方面からの東北線と私が通ってきた道路とが交

する東北線第二踏切の手前までは合流・下水道のマンホールの蓋が有りましたがその

先の王子駅方面には有りません。(他のマンホールの蓋はあり、また脇道に入った所

には合流・下水道のマンホールの蓋はありますが)古地図や資料 『北区の水ものが

たり』 では音無橋の上流、金輪寺付近の音無川に『王子大堰』 が有りその上流部

から分流して下郷用水・上郷用水が流れていた。下郷用水は飛鳥山下の縁を通りぬけ

飛鳥の小径を通り途中から斜めに鉄道の線路を横切って反対側にある道路に沿って今

度は上中里方面に向かって流れている。飛鳥山下の歩道には合流・下水道のマンホー

の蓋が3つ、そして音無橋の上流部左側に正受院(赤ちゃん寺)がありその付近か

ら下流へ下った川側のレンガ歩道に合流・下水道のマンホールの蓋が4つありカメラ

に収める。(残念ながら地図からは金輪寺が見当らない)そして最後に飛鳥の小路を

調査してみる。暗渠らしき形跡がありそして古地図と睨めっこしながら線路を斜めに

横切る所の形跡、もしかしたら?の写真も撮ってきました。現在の地図にマンホール

の位置をナンバリングし、その番号の記号を別紙に集計し表にしてみました。飛鳥の

小径の写真も添付しました。ご覧下さい。

  40     41    A 写真 1    B 写真 2    C 写真 3

東田端から上中里手前までのマンホールの年号が1980年(昭和55年)『東北線 

第2王子踏切』手前までが1968年、1962年、1960年(昭和43年、37

年昭和35年)となる、そして踏切の先の王子方面には同様のマンホールの蓋が見当

らない。それは左斜めに用水が横断して飛鳥の小径につながっているからと推測。そ

ておそらくこの敷設年号の前までは下郷用水があったと推測できる。                                                                                                  戻る 3

北区立郷土資料館シリーズ17 『北区の水ものがたり』にある『下郷用水』、『

大堰』ついては次のように書かれています。

『 下郷用水 』

新編武蔵風土記には、石神井用水には3派あり、その内の一つが『王子村石堰

大堰)』より10間(18.2m)許(ばかり)上流にて分流し、飛鳥山下

西ヶ原、梶原、堀の内、田端、新堀、三河島、金杉、龍泉寺、山谷、橋場

(へ)て浅草川(隅田川)に達す其近郷23村に引注ぐ故、直に23ヶ村用水と

づく』とあって、全長5里25町5間あったという。下郷用水は明暦2年(徳川家

時代)の王子大堰により始まるとするが、23ヶ村に用水が行き届くのは享保

(徳 川吉宗の時代)以降となる。

 『 王子大堰 』

大堰は王子川の内金輪寺峡下に設(もう)く。王子大堰は大水や洪水により破損を

見るが修復は自普請のために用水組合の負担となっていた。堰の大きさや場所も

少変わっていったらしい。広重の名所江戸百景『王子音無川堰捸世俗大瀧ト唱』

図と東都名所 飛鳥山下春之景

そしてこの大堰も昭和43年(1968年)の石神井川改修計画により撤去された。

 

大堰は王子川の内金輪寺峡下に設(もう)くと『王子大堰』に金輪寺が出てくるが

の場所が特定できず(対岸には正受院があるが)、そこで年が明けた1月14日

中央図書館『北区の部屋』の地域資料専門員のKさんに聞きました。その当時の

輪寺は現在はない。江戸時代の金輪寺は王子神社を管理する別当でしたが万延

年に焼失。明治になって神仏分離を向かえ廃寺になった。それで明治44年の古

図に載っていない事が分かる。江戸時代の王子村の古地図を見せて頂いた。金輪寺

の広い敷地の中に本堂や王子神社も一緒に赤く塗られて有りました。そして音無川

がその側を流れていて王子の大堰、その少し上に下郷、その上に逆川がそして対岸

の金輪寺側に上郷用水の分流が載っていました。(正受院は金輪寺より上流にあり)

それと並び方は音無川の下流方向に向かって順に金輪寺、上郷用水、音無川、下郷

用水、下り道、飛鳥山の順に並んでいて飛鳥山下付近で下郷用水が現在の飛鳥の小

径川に曲がる為め下り道とクロスします。そこの橋がアスカバシだと思います。『

北区の古い道とみちしるべ』の表紙に載っている江戸時代古地図をご覧下さい。

【検証】

私の仮説 正受院付近のレンガ歩道のマンホールは下郷用水には関係ないようです。

明治の古地図で醸造試験場付近かな?それと飛鳥山下の歩道のマンホールもどうも

うようですね。飛鳥山の下に古い道そして下郷用水の順で並んでいたので。古い

道がやがて明治通りとなり幅も広くなってもいるが下郷用水が飛鳥山下の歩道の位

置にはないだろう。 

 

2月26日(木)にも中央図書館に行き『北区の部屋』の地域資料専門員のHさん

聞きました。上記の新編武蔵風土記には、石神井用水には3派あり、その内の一

つが『王子村石堰(王子大堰)』より10間(18.2m)許(ばかり)上流にて

分流し、鳥山下を流れ、西ヶ原、梶原、堀之内、田端、新堀、三河島、金杉、龍

寺、山谷、場を歴(へ)て浅草川(隅田川)に達す其近郷23村に引注ぐ故、

直に23ヶ用水と名づく』で何で高台の西ヶ原方面も下郷23ヶ村用水に入るの

疑問に思い聞きした。『ここに出てくる村の地名は旧名で例えば西ヶ原は高台

の方面けではく現在の栄町の近辺も入る。梶原、堀之内等のように用水の本流

ではく枝分かしている地域も入る。東田端の分岐からも尾久方面に水を引いて

いる。』明治44年発行 瀧野川村全図『東京府北豊嶋郡瀧野川村』の古地図を

て見と下郷23ヶ村用水と名のつくほどに用水路の本流から枝分かれして各村の

田畑に水が引かれいる事が良く分かる。それも江戸時代から続いていて田畑にと

ってはとても大切な用水で明治になって鉄道が引かれる時もこの用水に気を使って

を引いている。やがて人口が増え田畑が無くなり用水路の必要が無くなって下

郷用組合は昭和8年に使命を終えて解散。やがて下郷用水も消滅して行った。私

が子供の頃にその途中のどぶ川を見て記憶していたのである。しかし人間の記憶と

い加減なものでその後には用水がまだあったのかどうかまったく記憶にない。

近のマンホールの蓋は調べた通り1980年に敷設で私が30歳の頃である

中里の知人女性は 『息子が5歳の時まで川はあったよ、その川に架かってい

橋を渡って田端機関区内の店で味噌や醤油を買った覚えがあるもの』 時期はピ

タリと合う。それと用水があったこの道を歩いていて気がついた事があります。

おもしろ発見 北区立郷土シリーズⅥ『北区の古い道とみちしるべ』にこの道が載

って いて昔からあった道。それも私の元にそのみちしるべが現在も残っている事

です。

調べてみると江戸の人々が上野を通り田端の台地から江戸坂を下りみちしるべ『右

六阿弥陀 西新井弘法大師道 左 王子道』を見て右に進み小台から隅田川を渡し舟

で渡って西新井大師へお参りに行った事がわかる。もう1つのおもしろ発見は旧地名

が残っている事です。我が家の近くの東北線の踏は『東北回送線 与美西踏切』と

書いてあります。なぜ『与美』なのか不思議に思っていましたが明治の古地図をみて

見るとると『字與美』と書いてあり旧地名だったとわかり、こんな所に旧地名が残っ

て使われている。(写真は与美西踏切)

それと今回の旧地名 新堀(ニッポリ)の漢字が今現在は日暮里(ニッポリ)になっ

いるのおもしろいですね。

                                                                                                                                               戻る 4

もう一つの川、『谷田川』について

最初この川も音無川から分流していると思っていましたが北区立郷土資料館シリ-ズ

『北区の橋』の2・3頁 北区の橋の所在地(地図)  北区立郷土資料館シリーズ

17『北区の水ものがたり』の中の『谷田川』を読みますと現在の西ヶ原4丁目みん

なの公園(もと外語大付近)の豊富な湧き水から始まり上流より谷戸川、境川、谷田

川、蜆川、藍染川と流域により呼ばれていたが一般的には谷田川で最後は不忍の池へ

流域の川の名と当時の地名等を調べてゆくのもおもしろそう。今は埋め立てられ川

はなく暗渠になっているが名前は今も確りと残っている。田端には谷田川通りがあり

、交差点に谷田橋、その橋のこん跡が田端八幡神社の参道にある。それと西日暮里か

ら下流域では水はけが悪く水害がよく起こったそうです。藍染川の道灌山付近からそ

の解決のための分流としての放水路を荒川区流域に作ったそうです。その川は道灌山

下から西日暮里その先は新三河島、町屋を抜け隅田川に合流です。昔の谷田川は水が

とても綺麗で野菜などを洗ったようです。下流域では藍染もしていたのでそのような

川の名がついたのでしょう。最初は藍染川に分流(放水路)がある事を何も知らずに

『藍染通り』の名前から地元の年配の方に川があった事を確認しながら『藍染川って

綺麗な名ですがこの道を流れていたんですか。結構川幅はあったんですか』等々と聞

いてしまった。答えは『ドブ、大ドブだよ』当然人口も増えていて工場排水も流れ、

暗渠にしても臭ったようです。藍染川は不忍池に流れて入るとばっかり思っていまし

たので、勉強でした。

写真 藍染西通りと藍染通り

 

今回の下郷23ヶ村用水についてを調べるにあたって北区中央図書館『北区の部屋

の地域資料専門員 Hさん、Kさんには忙しい中、とても親切にいろいろと教えて

ただきました。有難う御座いました。この場をお借りしましてお礼を申し上げます。

それと今回参考にさせて頂いた文献資料・古地図は

・北区史 民俗編2 編集 北区史編纂調査会 発行 東京都北区

・北区の歴史 付録かわら版 北区史 発行 北区文化振興財団

・古地図29 明治44年発行 瀧野川村全図 東京府北豊嶋郡瀧野川村

 発行 東京逓信管理局

・古地図30 明治44年発行 王子町全図 東京府豊嶋郡王子町

 発行 東京逓信管理局

・北区立郷土シリーズⅠ 北区の渡船考 北区にあった渡し場 東京都北区

 教育委員会

・北区立郷土資料館シリーズⅤ 北区の橋 編集 東京都北区教育委員会

・北区立郷土資料館シリーズⅥ 北区の古い道とみちしるべ 東京都北区教

 育委員会

・北区立郷土資料館シリーズ14 錦絵に見る北区 東京都北区教育委員会

・北区立郷土資料館シリーズ17 北区の水ものがたり 東京都北区教育委

 員会 

 です。とても勉強になりました。        

 

                                       2016年3月12日 

平成27年度北区中央図書館第2回公開歴史講座

~帳簿の中の文書たち ~王子26ヶ村用水組合.年番箱の記録~

                 講師『 北区の部屋 』地域資料専門員 保垣孝幸 先生 

を受講して

『 下郷23ヶ村用水 』について半年がかりで歩いて、調べて、聞いて教わって、また歩いて、

私なりに理解しその途中経過がとても楽しくそして上手くはないが上記のような形でまとめま

した。そして今回の歴史講座を受講し、H先生の話を聞きました。最初の30分は石神井川と

その用水の全体像( アウトライン )を話され、私が調べた事も沢山含まれていました。広い

視野で理解する事が出来ました。そして本題の王子26ヶ村用水組合とその働きを文書の例

を挙げながら解説されました。

ほんの1部ですが紹介します。

・ 北区の地域では隅田川の水を農業用水としてなぜ使わなかったのか? それは塩分が含

  まれていたから

・ 石神井川に用水路を作って農業用水を引く。その用水を引く為には石堰が必要で『王子石

  堰』が出来、その石堰の維持、管理をする組合として『王子26ヶ村用水組合』が出来た。石

  堰の上流に上郷用水と下郷用水の分流を作って、この用水組合は上郷3ヶ村と下郷23ヶ

  が合同で作った組合。また通常は(上郷3ヶ村も含め)下郷23ヶ村の上流村と下流村から1

  ヶ村ずつ合せて2ヶ村が年番となり役割をこなす。1年ごとに交替で勤番し次の年番に年番

  箱ごと引き継ぐ。持ち回りでその組は11組に分かれていた。

●王子26ヶ村用水(①+②)

 ①上郷3ヶ村用水  王子・豊島・十条(下十条)

 ②下郷23ヶ村用水  梶原堀之内・船方・上中里・中里・西ヶ原・田端・上尾久・下尾久・新堀

   谷中本・三河島・町屋・金杉・龍泉寺・三ノ輪・材木・花川戸・山ノ宿 ・山谷・今戸・小塚原・

   中村・橋場

●年番の役割は

 ① 組合を代表して幕府・領主に対し、願書、請書を作成、他の諸機関との調整を図る。

 ② 必要に応じて寄合を召集し、組合内の連絡調整を行う。

 ③ 水下村々の引水を差配する(組合村々の引水日時の決定・通達)

 ④ 普請等諸費用の割り掛け・徴収

 ⑤ 石堰および用水路の維持・管理(普請時の立会い/浚後の用水見回り 等)・・・・・そして、

   組合関係資料の保存・管理が重要な仕事!年番になった村の名主さん、1年間は用水に

   関する仕事とそれらの関係資料の作成、と保存・管理でもとても忙しく大変であったと思わ

   れる。また年番箱の写しの文書(三河島村 松本家文書・旧豊島村 石井家文書)が出て

   きて用水組合の具体的な内容が分かり、興味をそそられました。

 

長時間『下郷23ヶ村用水』についてご覧いただき有難う御座いました。気ずかない点や

間違いも多々有るかと思いますが どうかご容赦ください。                                                                                                                                            戻る 5